続・性的表現規制と表現の自由

 昨日に続き、「わいせつ物」規制の現代的展開について。

[2]性的表現への新たな異議 ―ポルノグラフィ論―

 昨日の記事で触れたように、性的表現の規制に「公共の福祉」を持ち出すことにそもそも問題がある。時代の変化にあわせる形で、規制を徐々に緩めるような法の適用がなされてきた(現在「チャタレー夫人の恋人」は新潮文庫とかで普通に買えたりする)が、社会環境の変化というこれまた不明確な基準で法の適用範囲をなんとなく決めてきているのが現状である。こうした中、米国で生まれた発想を元に、性的表現の規制を、社会秩序の維持とは別の視点から規定する考え方が持ち上がった。これが、『ポルノグラフィ』論である。
 おこりは80年代の米国で、提唱者はC・マッキノン。彼女の言う「ポルノグラフィ」とは、性的にあからさまな形で女性を従属させるものであり、いわゆる「わいせつ物」とは別。ポルノグラフィが女性を従属的・客体的に描くことによって、女性を従属的なもの・客体的なものと捉える性差別的意識が社会に受容されるとした。これにより、性暴力を受容する基盤が創出されるとして、性的表現を「性差別の問題」として規制しようとするものである。
 このポルノグラフィ論は、「公共の福祉」論に比べて判断基準の明確性を持たせたことと、目的を社会秩序の維持(公共の福祉)から性差別の禁止(平等)というより妥当なものにしたという点で評価される。しかしなお、多様なものである個人のセクシャリティについて国家が権力をもってその価値判断に介入するという事自体が許されないことにかわりはなく、刑事罰を課さねばならないほどの法益の侵害があるのかも疑問である。

[3]性的表現規制の今後

 それでは、わいせつ物頒布はどう規制されるべきか(どのようなものであるべきか)。わいせつ物頒布によって侵害される法益は、わいせつ的表現に接したくない者及び未成年者の個人法益と解されるべきものであろう。この法益保護の必要性から、特定の販売の態様を限定的に規制するのが妥当であり、刑法175条はそのように限定解釈されるべきものと考えられる。

周辺的問題:準児童ポルノ(或いは非実在青少年)と単純所持規制

 「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」(いわゆる児ポ法)の改正案に関しての話。児ポ法は、同法1条にいうように、「児童の権利を擁護すること」を目的とする。児ポ法の契機となった、子どもの権利条約(政府公式の呼び名は児童の権利条約)34条(リンク)も、子どもを性的虐待及び性的搾取から保護するべき義務を定めている。これらが示すのは、表現そのものの規制を強化するものではなく、表現によって侵害される子どもの権利を特にあつく保護しなくてはならないという意味である。ここから、現実に被害者のいる児童ポルノの規制が通常の性的表現物の規制より厳しいものであることが導かれている。いわゆる児童ポルノに関して、一般的な性的表現物に比べて、表現の自由の上での保護が薄くてよいとする理論がまことしやかに語られるが、それは条文から導かれるものではなく、論者の社会秩序の「あるべき論」の帰結である。さらにそれは、前述のように国家による価値判断への介入を正当化するものであり、妥当とは言えない。これをもとに、被害者の存在しない準児童ポルノについて言えば、
(1)国家による価値判断への介入=近代立憲主義の否定
(2)刑罰の根拠である保護されるべき法益の不存在=立法違憲の疑い
(3)書(描)かれた対象の年齢の判断不能=明確性の欠如による違憲の疑い
(4)警察等による恣意的違法性判断の危険=適用・処分の違憲性の疑い
と問題が山盛りであり、これを破るほどの規制の正当化根拠は見当たらない。
 単純所持規制について、家族や交際相手、自分の写真であっても該当しうることから過度の広汎性(=違憲性)があり、譲渡や販売の意思なく所持することをも規制するのは、思想・良心の自由を害するものとなりうる。また、所持の容疑で捜査が行われるならば、捜査権の拡大が処罰の拡大同様に問題となる。単純所持規制が法的に正当化され得るものとは考えられない。