憲法学者による「釘刺し」(2020.02.01愛知県弁護士会『表現の自由について考える』イベント)

 表題の、2月1日愛知県弁護士会主催の『表現の自由について考える』イベントを受講してきました。「表現の不自由展」実行委の人の話など、内情を知れて面白かった点などもあるのですが、このブログの継続的なネタとの関係で、憲法学者の愛敬浩二先生の話を紹介し、実は内容としては参加者に壮大な釘刺しをして帰っていったというのが面白く感じたのでここで文章にまとめておきます。

 

 さて、「表現の不自由展」中止騒動について、中止すべき理由として挙げられたものの中でまあ対応を考えなければならないだろうと思われるのは主に二点で、まず、公共施設での展示を許容し、又は公金を支出することが、国民全体が表現内容を許容したことになるかという点があり、次に、国民多数の感情を害する展示が保障されるべきかという問題があることが指摘されました*1

 

 前者については、規制(禁止)と給付の撤回という行為の性質について、給付については無限の予算・施設は存在し得ないから裁量があるのは当然であるが、無制限の裁量があるわけではないという話がされました(本記事とは関係が薄いので大幅に省略)。

 そして、この記事のミソは後者です。一般的な問として、「閲覧者に不快感を与える展示」が禁止され得るか、どんな場合か、という問いが立てられます。ここで例として、「表現の不自由展」実行委の岡本有佳氏*2の主張である、「ヘイトスピーチや性暴力表現も「表現の自由」だという主張は成り立たない」という論理があり得るかが検討されます。講師の愛敬先生はこの考え方はとらないとし、その主張は、ジュリアーニニューヨーク市長がブルックリン美術館の展示を"sick"と罵倒した*3ことと同じことをしているのではないか、と示しました。愛敬先生の考え方は、「特定人、特定集団に対し、見たくなくても見せられる行為については規制が可能である」というものでした(独自説でなく憲法学の通説的な考え方と概ね一致すると思います*4)。つまり、見たくなければ立ち去ればよい(あるいはそもそも見に行かなければよい)展示については、不快だろうがヘイトだろうが性暴力だろうが、これを禁止することはできないのが原則だという説明がされました。

 この基礎にあるのは、まず芸術性のようなものについては公権力に芸術かどうかの判断の権限を与えてはならないという原則(後述する「憲法という星座の恒星」の理論が引用されました)があり、また実質的にも、ヘイトスピーチ的なものを規制すると例えば Richard Hamilton"The Citizen 1981-83"(収監されハンストを行うIRA兵士をキリストに擬えた絵画)やシャルリー・エブドの風刺画のようなものに延焼するし、性表現を規制するというなら、先だって豊田市で展示されていたクリムトの”ユディト”は表現の外形(露骨な乳首が描かれている)からも、宗教画としての描写の観点(色仕掛で首斬りに行った暗殺者の裸体と恍惚の表情を描いている)からも真っ先に規制対象にされることになりますがこれは不当ですね?という説明がありました。ヘイトや性暴力が、思想の自由市場に参入すべきでない、価値のない言論であるとしても*5、それでもなお、適否の判断権限を公権力に与えてはならない、ということが繰り返し説明されました。

 上記の考え方の基礎にあるのは、ウェストバージニア州教育委員会対バーネット裁判判決*6*7でJackson判事が述べた言葉で、

 「私達の憲法という星座の中に、何らかの恒星があるとすれば、公務員はその地位の高低にかかわらず、政治、ナショナリズム、宗教、あるいは意見の異なるその他の問題について、何が正当であるかを決めることは許されないということである」

 つまり、正しいか正しくないかの決定権を公権力に与えてはならない以上、何らかの観点viewpointからの「正しくない」表現の規制は理由がないと言い切ったに近いものと言えるでしょう*8。また、これに際して、Skokie村事件*9におけるAryey Neierが自身はユダヤ人でありながらネオナチの表現を擁護した*10という例を引き合いに出し、自由は危険なものであるが、人々が安全に表明できる思想・意見が何かを決める権限を政府に託すことのほうがはるかに危険である、と説きました。

 

 さて、上記の内容は、これまで表現の自由に関して憲法の観点から散々語られてきたことと大きな差はないわけですが、これは、表現の自由が保障される社会とはおよそ快適なものではなく緊張の生まれる社会であるが、それを選ぶしかないものである、という性質をあらわしたものです。即ち、「表現の不自由展」に対する攻撃を差し控えよというのと同時に、全ての市民は、嫌がるものを強制的に見せられる場合*11を除いてはあらゆる不快な表現の存在を受忍しなければならない、また、公権力によって、特定の観点に基づき表現の場を奪わせようとする行為を差し控えよ、と説得する内容であったわけです。大変嫌な言い方をするとしたら、会田誠の「犬」とか、戦争賛美芸術とか、はすみとしこの「そうだ難民しよう」イラストとかが強制的に見せられるのでなく展示される場合、それに対する公権力による規制(当然、施設での公開の停止も補助金カットも含む)が許されないのが論理的帰結なので皆さんもそれに耐えてくださいね、と釘を刺す内容の話だったということです。

 

 会場に、上記のような市民の受忍の責務が伝わっていたかはわかりません(あるいは私の認識が誤っており愛敬先生はそんな意図でなかったかもしれません)。愛敬先生は法科大学院での講義では、低価値表現あるいは無価値的表現については保護の必要が薄い、くらいのことしか言っていなかった(うろ覚えの記憶)ことからすると、狭く深く話す場合にはこれだけのものが出てくるのだということに流石は専門の学者であると思い、また聴衆におもねらずしっかり釘を刺していったところも、学問に対する忠実さという点で敬意を払いたいと思います。

 (運営側にいた友人はヘイトスピーチ規制推進派であるため、上のような話にはやや苦い顔をしていたところですが、脇の甘い理由付けには今後もツッコミを入れて対話していきたいと思うところです。)

 

 なお、私個人としては、文中に挙げた各作品及び不自由展の内容について支持を表明するものではありません。

*1:当日配布レジュメと構成が異なりますが、レジュメの残部分及び講演内容を受けて筆者が再構成したものです。

*2:なお同氏は、会田誠氏によると会田氏の森美術館での展示の性表現を攻撃した側にいたとされる人物( https://twitter.com/makotoaida/status/1161494207783198720 )。直接確認したわけではないですが、会場におられたのではないかと思います。

*3:ブルックリン美術館事件、1999年

*4:具体的には憲法の基本書等を参照いただくとして、特定の自然人は当然として、法人、社団等までいけることにはほぼ争いがないと思いますが、「集団」については認めないとするか、どこまで認めるかに幅があると思います

*5:いわゆる「思想の自由市場」論は現実のものと信じている人はいないのではないか、とも語られました

*6:日本が米国型の表現の自由の保障システムを採用しているため度々アメリカの話が出てきます

*7:West Virginia State Board of Education v. Barnette 319 U.S.624(1943) 、公立学校での星条旗への忠誠の誓いの強制を違憲とした最高裁判決

*8:講演時間の制約から、例外として規制が許容できる場合についてまで詳細に説明することはできなかったと思われますが

*9:住民の半数以上がユダヤ人で、ホロコーストを免れた人も多く在住していたSkokie村で、米国ネオナチ党が鉤十字の腕章とナチの軍服を着用しての集会を行おうとしたのに対してこれを行わせないために村が制定した条例を違憲無効とした判決。(なお、結局村での集会は行われなかった)

*10:『私の敵を擁護する Defending My Enemy』(1979)

*11:Skokie村の村民以上の拘束をもって、というレベルでの話になるでしょう