性的表現規制と表現の自由

憲法の試験対策オレオレシリーズ。

表現の自由の原理

 個人の外面的精神活動の自由としての表現の自由(言論・出版の自由)
 →表現を通じた個人の人格形成と自己表現

制約に関わる原理

1)表現の自由の優越的地位
 =表現の自由には、一段と高い程度の憲法保護が与えられなければならない

2)表現の自由の制約
・「表現の自由」とその他の人権との間の違憲審査基準の相違
 →「二重の基準」論:精神的自由を制約する立法は、経済的自由の規制立法に対するものよりも、より厳格な基準によって審査されなければならない
・「表現の自由」の規制類型
◆規制の時期:事前抑制⇔事後規制
 →事前規制=原則として違憲(∵)萎縮効果
◆規制の範囲:規制対象が限定的⇔非限定的
 →対象が非限定的=原則違憲(∵)萎縮効果
◆規制の理由(なぜ規制するのか):表現の内容の規制⇔手段の規制
 表現内容:表現が伝達するメッセージ内容
  →犯罪の扇動・性表現・名誉毀損・差別的表現など
 表現手段:内容に直接関係しない
  →騒音・広告掲示・選挙運動など
◆規制の態様(どう規制するのか):表現内容規制⇔内容中立規制
 内容規制:内容を理由として「表現そのもの」を規制
  →扇動罪・わいせつ物頒布罪・名誉毀損罪ほか
 内容中立規制:時・場所・方法の規制
  →暴騒音禁止条例・屋外広告物条例・公選法ほか

憲法21条【表現の自由

1項:表現の自由
2項:検閲の禁止・通信の秘密

日本における性的表現の規制

[1]刑法175条「わいせつ物頒布罪」

第百七十五条  わいせつな文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役又は二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。
 これについて最も有名な判例これ(いわゆるチャタレー事件)。
 これをはじめとする判例で示された「わいせつ文書」とは、
●徒に性欲を興奮せしめ
●通常人の正常な性的羞恥心を害し
●善良な性的動議観念に反する
物で、文書全体との関係で判断されるとしている。
 チャタレー事件判決では、表現の自由の規制理由として“公共の福祉”論を用いた。そこでいう公共の福祉とは、『性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持すること』とされている。また、文化や文明・時代を超えて一般に守られるべき性的道徳なるものの存在を提示した。なお、
相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならめのである
という、我こそが道徳の守護者と言わんばかりの崇高な理論が展開されている。

 このような理論は、近代憲法学の根底にある、「国家が個人に価値判断を押し付けてはならない」という基本思想を真っ向から否定するものであると言わなければならない。


◆これは本当に、表現の自由を制約することについての妥当な目的・根拠なのか。

 第一に、被害者の不在という問題がある。名誉毀損/プライバシー侵害の場合と比較して考える。被害者(もしくは被害者の法益の侵害)があるゆえに表現の自由が規制される名誉毀損・プライバシー侵害については、保護されるべき法益が明確であり、侵害に対する民事上の責任も明確にされている。それに比して、被害者の存しない(ex.チャタレー事件はフィクションである小説が問題となった)わいせつ物の頒布について、なぜ刑事罰という重いペナルティを課し得るのか、という疑問がある。

 第二に、「わいせつ物」なるものの判断基準はどこにあるのかが不明瞭という問題がある。わいせつとは何なのか、刑175条の保護法益が何なのかが明確でないことから、これは表現の自由を、解釈によってどのようにも処罰しうる可能性を持つ。つまり、法益侵害の危険性の有無にかかわらず取り締まりが行われうるということであり、国家が刑罰を持って個人の価値判断に踏み込むという危険をはらんだものである。また、「過度の広汎性」を持つ規制として、条文の存在自体が違憲の可能性を拭えないものとなっている。

※次回、最近の話題を含めて、続・性的表現の規制(予定)