資源の偏在のお話。

 漠然と「世界で水に困っている人」がどれだけいるかというと、基準の差とか統計の取り方の差によって数億人〜10億人なんて言われます。これに関し、小学校では、「世界には飲む水にさえ困ってる人がいるのだから水を大切にしなさい」という理論が普通にまかり通っているそうです。
 あらゆる資源は偏在しています。鉄鉱石だとかアルミニウムなどのような、地殻中の含有量の多いものでも、鉱石として採掘できる場所というのは大体限られています。石油はもっとわかりやすく、埋蔵量の過半が中東に集中していたりします。水について言うならば、まず第一に地球上にH2Oはあふれ返っています。しかしその95%以上が海水であり、淡水のうちでも大半は両極の氷であるといいます。残るわずかな淡水が、人間の利用可能な淡水ということになります。日本は降水量が多く国土の狭さの割に水は豊富で、人口当たりにしても十分に豊富と言えるでしょう。一方で、アフリカでは毎日何時間も歩いて泥水を汲みに行く人々がおり、アジアでは人口過剰により河川の水不足が深刻で、世界自然保護基金(WWF)によれば世界の水不足の川TOP10のうち5がアジアで、揚子江メコン、ガンジス、インダスといった大河がこれに含まれる。インダス川では時期によって河口まで水が流れない時期もあると言います。
 このように水の偏在は大きな問題ですが、「世界には飲む水にさえ困ってる人がいるのだから水を大切にしなさい」という理屈はこの現実とはかけ離れた、一種の思想であるといわざるを得ません。日本で節約された1万tの水があったとして、これがアジア・アフリカの水不足を解決できるかと言えば、役には立たないでしょう。水を運べば云々というのは結構ですが、輸送にも大きなコストがかかります。それに日本の水なんて途上国では買えはしません。
 さて、こう聞くと日本には水が有り余っているようにも思えますが、これが実は、農作物等の「水換算量」を考えると実は日本は大量の水を輸入しているのです。つまり、オーストラリアや中国の水不足の責任の一端を日本は負っているということでもあるのです。なかでも牛なんかは、1tの肉のために何tだかのトウモロコシと何十tだかの水がいるのだそうで(正確な数値覚えてませんが)、そういう点では実に責任が重いとも言えます。某地域の給食では素材は厳密に国産に限られているわけですが、それでも飼料やなんやで輸入している水と必ず関わっています。
 つまり、「世界には飲む水にさえ困ってる人がいるのだから水を大切にしなさい」という話は、蛇口を閉め忘れた子供に対する叱責の場ではなく、給食の時間に食への感謝とともに語られるべき話なのではないかと私は思います。