『自己責任』のウソと格差社会

 日本で新自由主義という言葉が悪魔の言葉のように言われるようになっているのは不思議なことだ。いわゆる小泉改革新自由主義の現出であって、『自己責任』という言葉は新自由主義の象徴であり、格差社会が生まれたのも小泉のせいである、という主張がそれである。これを鵜呑みにするのならば、“非正規労働者は『自己責任』で非正規労働者である”という前提を認めているということに注意しなければならない。この論理はフィクションを含んでいる。なるほど非正規労働者は同世代人との競争に負けた結果非正規にならざるを得なかったかもしれない。しかし、2009年に就職活動を行った学生のことを考えてみればよい。彼らが2009年という難しい時期に就活を行うべき年に生まれたことは、彼らが選んだことではない。彼らと、リーマン・ショック直前に就活を行った学生たちを比べてみてもよいし、もっと分かりやすく言うなら、バブル全盛期の1989年に就活を行った学生を見てもよい。バブル期の学生の方が優秀であった、と言える人がいるとしたら今の大学を知らなさすぎる。しかし、現実には、こうした世代を超えた競争というものは行われていない。つまり、いま起こっている格差社会は、競争による自己責任の問題ではなく、むしろ競争が行われないゆえに起こっている問題であると考えられる。現在問題になっている非正規労働者は、現在非正規労働者であること以上に、「今後もずっと非正規労働者である」と決まってしまう。非正規から正規になることはほとんどない。「就活」の1年間で失敗したらその後一生非正規が確定する社会……というのが現在の日本の労働社会である。
 なぜこうなったのかといえば、ひとえにいえば「カネがない」ことによる。減速する経済とグローバル化&競争の激化が原因であり、減った給与原資の負担が非正規労働者に向かっていることによる。なぜ負担が非正規労働者に向かうのか、といえば、法制度が正規しか保護していない(過剰に保護していると言ってもよい)ことと、組合(労使といってもよい)による意思決定は、「現在その会社の正規労働者である者」の利益しか考えず、非正規労働者や、翌年以降に労働者になる可能性のある者の利益は反映されないことによる。非正規や将来の労働者と現在の世代の利益は、パイの大きさが決まっていると考えれば相反するものであり、当然の帰結とも言える。(大企業は内部留保をたくさん持っていてこれを分配すればいくらでも云々、というお花畑理論は取りえない)

 ではどうしたらよいのか、といったときに、労働市場の活性化が考えられる。流動化によって、負担の一点集中を回避し、労働社会全体で負担を受け入れることを目指す。一度雇ったら定年まで解雇できないようなシステムは改める。これは、「解雇できないから最初から雇わない」ジレンマをなくし、「雇わないために残業で補う」といった慣行をなくすことを目的とする。労働者は、勤続年数で横並びの賃金ではなく、その仕事の対価を賃金として受け取る。こうして、仕事と賃金のシェアリングをすすめる・・・

 という話をゼミでしました。「なにそれこわい」的な反応も見られたけれど、先生も非常に真剣な顔で聞いてたのでおそらく通じたと思います。反・新自由主義的な立場を取る先輩の話とセットでの発表だったこともあり、終了後にゼミがざわつくくらいの反応が得られたのでよかったと思います。二人の結論は、たどったルートは違えど「仕事と賃金のシェア」という同じところにたどり着いたわけですが、経済の全体的な縮小が所与の条件であるなら、それも当然のことだったかな、とは思います。それを実現する手段はこれまた全く違う、というのも面白いところだったと思います。