「雇用の流動化」のほんとうの意味とその必要性

 日本の労働社会は流動性が足りないと言ったら、一斉に「なんで?」って顔をされた。一括でやる新卒採用と派遣以外に、労働力市場と呼べるようなものがそもそも存在しないことの異常性というものがあまり理解されていない気がする。市場がないということは、企業の枠の中以外では適材が適所に行けないということであり、労働者にとってこれ以上の不幸はない。同じ能力があればより賃金の高いところ、同じ賃金ならより自分の能力を活かせるところ、同じような仕事と賃金ならより環境の良いところを求めることができるのが労働者にとってベストな社会であり、一度選んだ会社に、賃金が下がろうが不払い残業が増えようが退職まで奉仕させるという社会のほうがおかしい。能力がなくても自動的に賃金の上がっていく賃金体系は、高齢者を養うために若者から収奪を行っているのに等しい。さんざん注文をつけて狭き門を通らせた新卒者に、年功序列だからポストが空くまでは下働きをせい、と言うことも異常であると知るべきである。そんな会社に見切りをつけて3年以内にやめてしまう若者というのは、正しい選択をしているのだと言える(もちろん他の理由でやめる人もいるのでしょうが)。
 私が実現すべきと主張する労働社会とは、労働者と使用者が対等であり、労働者が使用者をいつでも選びなおせるという、「あたりまえの社会」である。この「あたりまえの社会」を実現するためには、賃金体系は勤続年数に対する賃金ではなく職務に対する賃金でなくてはならないし、職制は年功序列で決まるものであってはならないし、労働市場はオープンでなくてはならない。これが本当の意味での「雇用の流動化」である。流動化=非正規化による賃下げ、という短絡的な発想は聞くだけで悲しくなる。しかし実際のところ、連合やら民主党やら社民共産やらの主張はその程度であり、メディアの取り上げ方も似たようなものである。流動化によって失われる既得権者の利益(これにより失われる社会的利益があるかは疑問)と、流動化の実現によって得られる現在のミスマッチ状態の労働者・アウトサイダー・将来の労働者の利益及び経済・社会全体の利益を比べたときに、どちらがより重要なのかを考えればいい。結論はほぼ決まっていると言ってもいいだろう。