性的表現の自由(4):まともな議論の環境はあるか?

性的表現規制と表現の自由
続・性的表現規制と表現の自由
性的表現の自由(第3回):懲りない東京都(当ブログ11/22付)

 性的表現の自由は、基本的に脆い自由である。性的表現の自由を保護しようとする人が少ないためである。東京都の条例案は、その根拠も手段の適正も怪しいままに提出されたが、メディアでほとんど取り上げられていない。また、条例案に対して公然と批判を行うのは、法曹や表現活動を行う本人等が多く、残りはネットに溢れる屑星(自分含め)がほとんどとなる。その結果として、性的表現の規制は、その内容が十分に吟味されないまま強化の方向に向かいやすい。

 理由は極めてシンプルである。性的表現の規制に反対すれば、「お前が性的表現を欲しがっているだけだろう」という攻撃が待っているからである。今回の東京都青少年育成条例の例で言えば、『強姦等の著しく社会規範に反する性交または性交類似行為を、著しく不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を著しく妨げるものとして、東京都規則で定める基準に該当し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められるもの』を、「お前が見たいから規制に反対するんだろう」という主張がそれであり、これがさらに進行すると「規制に反対する人間は異常者、性犯罪予備軍という主張(同条例案の審議会メンバーの同趣旨の発言より)が行われるに至る。 「漫画・アニメーション等での性犯罪肯定」というレッテルを貼ることにより、反論そのものではなくて反論者の社会的価値を下げることで反論を封じることが当然のように行われるのが性的表現の自由と規制に絡む議論の全体的な問題である。前々回の記事で書いたように、表現の内容を国家だの地方公共団体だのが“権力をもって価値判断を行い、その可否を判断する”ことはそもそも行ってはならないものであり、それが性的表現であろうが犯罪に関わる表現であろうが同じことである(扇動等を行う場合にもちろん例外はあり、現実の被害者のいる児童ポルノは表現・頒布の是非以前の問題である)。「規制」とは、保護法益の主体である青少年のためのものであり、青少年にそのような表現を見せないためのゾーニングをいかにして行うかの議論が行われなければならないところ、表現行為そのものに対する規制に話をずらされた挙句に、反論が封じられてしまうのである。

 結果として、規制に異を唱えるのはマイノリティ中のマイノリティということになる。これでは、まともな議論の環境があるとは言い難い。これは性的表現に限らず、反社会的・反体制的な内容の表現行為に対する規制全てに共通する問題である。その内容についての理解の度合いを問わず、とりあえず素直な疑問を呈することに大いに意味があろうかと思う。社会的評価などあってないようなもんである市井のブログ書きやら匿名でぶっぱなせる掲示板やらも、こうした行動に向いた唯一のメディアなのだろうと思う。そんなわけでこの件についてはもう少し気にしておくことにしたい。