死刑に関する議論喚起

 突然の死刑執行が波紋=落選法相、説明責任免れず(jiji.com/時事通信

 千葉大臣が死刑を執行。決まっていた刑の執行についてなぜ執行したのかとかいちいち言う必要が無いのは確かでも、この執行は割と不思議なモノに見える。千葉氏は元々死刑廃止論者であり、これまで死刑の執行はしないという方針でいたように見えたのがひとつ。そして、ふたつめには、なぜ落選してからの今に執行することにしたのか。サインしたのは議員の任期中だったとは言うが、その24日の時点であったとしても、既に選挙で落選した後のことである。問題は任期云々ではなく、彼女が既に国政に関わるものとして信任を失っていることが明らかになってからのことであり、その行為にどのような正当化根拠が求められるかにこそあるのだろう。
 記事にある法務省幹部の推理はおそらく正鵠を得ている。鳩山の「やっぱり海兵隊必要でした」理論と同じで、実務に就いてみてやっぱ無茶言ってたわ、ってのを感じた可能性は高い。これに加えて、続投に向けて批判をかわす意図があったか(だとしたら明らかに逆効果になっているが)、これもまた死刑廃止に向けたパフォーマンスであるか、くらいが考えられよう。

 さて、千葉法相のていたらくはさておき、死刑についての議論はもっと行われてよかろうと思う。世論とはそもそもそんなもんではあるが、死刑の残虐さであるとか非人道性を叫ぶ廃止論者と、被害者(だいたい遺族ですが)の処罰感情なるものを持ってきて執行を求める存続論者の争いに見えるような取り上げ方をメデイアが行う。しかし、正直なところ、この2論点は互いに全く噛み合う要素がない。廃止論者からしてみれば、遺族の処罰感情は“理解するけれど死刑は行うべきでない”というものであり、存続論者から見れば“その残虐さをもってしても罰することが必要だから死刑にすべき”ということになる。2論は最初から相対しないもので、そこを言い争ったって未来永劫決着はつかないよ。

 ここで一例として、一般に認識度の低い方ではあるが、興味があればきっと聞いたことくらいあるであろう、国が権力の発動として刑罰を課する理由からの議論を確認しておきたい。TV等メディアに露出する一般的な認識とは、「悪いことをしたらその分の罰が下されなければならない」というものである。もちろん現在の日本でもその要素がないわけではない。しかし、刑罰の発動の原理としてもっとも重要なものは、『犯罪の抑止』である。いわゆる威嚇効果というもので、刑罰があることによって、罪を犯そうとする者を思いとどまらせる効果を期待されている。では果たして、死刑とそれに替わる何かしらの刑罰を考えた場合、果たして抑止力があるのはどちらか。市民革命期の啓蒙思想家ベッカリーア(この人自身はイタリア人)『犯罪と刑罰』によれば、刑罰の威嚇力は、その重さよりもむしろ期間の長さであるとされる。もちろん、死というペナルティの重さが威嚇力において重要とする説もある。現代の米国(州ごとに死刑の有無がバラバラ)をはじめとする研究によると、死刑の存否によって犯罪抑止力に差があるかどうかは、白黒きっちりつけれるほどの明確な差はないと見える。もちろん、この威嚇力の多寡はその国家・宗教事情・死生観の思想等によって大きく異なるので、米国であるとか欧州等の調査結果をそのまま持ち込むことに意味が無いことも押さえておかなければならない。

 なお、死刑廃止論については、「社会契約はそもそも死刑を容認するのか否か」などといった根幹からの哲学的議論から、死刑と長期の懲役刑を比較したときに国が負わなければならない費用的負担のようなカネの話まで、多岐にわたる論点が存在する。抑止論もその一つでしかないし、最初の方に挙げたすれ違っている2論点についても、個別に両者の側からの検討が行われなければならない。

 感情論が先行する現在の死刑廃止を巡る議論は、正当化根拠のあやふやな結論を招きかねない危険なものである。今回の千葉法相の執行は賞賛されたものではないが、死刑とはなんぞや、という根本のところを考え直させるという意味では一応無駄ではないかもしれない。ちなみに個人的には、より抑止力ある刑罰(だからって手鎖のうえ市中引き回しみたいなのは本当に人権上の問題がある。仮釈放なき終身刑とかを考えてよいだろう)が設定されるなら、死刑を存続させる意味は特にないんじゃないかと思っている。