Clear and present danger

10日ほど前、ある政党が東京・巣鴨で集会を行った。巣鴨はお年寄りの多い地区として知られているらしい。TVで放送されたその集会の映像を見て、暗澹たる気分になった、などという文学的表現ではとても表せない気分になった。絶望した。彼らのあげていたシュプレヒコールがこうである。『お年寄りをいじめるな!』だそうだ。これを見て辟易した、あるいは憤りを覚えたような人はどれくらいいるだろうか。若者にとって、これほど残念な理論はない。現在のお年寄りの皆様方は、年金・健康・介護のすべての保険において、自分たちが払ってきた額より遥かに多い額の支給を受けている。もちろん制度は0から作らなければならないのだから資金0からは始められないし、年金の制度開始25年後から支給開始なんて悠長なことが言えるわけはない。しかし、年金もらって当然、医療費も払ってもらって当然、介護だって全ての人が受けられて当然、という意識は間違いなく根底にある。身近に介護に携わる人もおり、公務員として障害者福祉に関わる人から話を聞いたこともある。この方々の話にともに出てくる単語があった。それは、『特権意識』である。高齢者と言うのは資産のある人はいても基本的には無産であり、多くは勤労者の収入を分配することによって年金と言う形で生活費を得ている。だが受給者の意識はそれとはかけ離れている、というのだ。

この特権は、おそらくこれからも無くなることはない。上記の「お年寄りをいじめるな」がその象徴たるものと言える。65歳以上の高齢者は国民の1/4を占める時代となり、重要なポイントとして有権者の少なくとも25%以上を占める。つまり、民意の代表者としてではなく実質は票のために働く国および地方議会の議員たちは、高齢者の有権者の皆様方に迎合せざるを得ない。「若い世代のためにお年寄りの皆様に我慢していただけねばなりません!」という候補が出てきたら若い人の票は得られるかもしれないが、多くを占める高齢の有権者の票を得られずに落選していく可能性が高い。もうだいぶ前になるが、改革による「痛み」を訴えて勝利した議員がいたが、彼の真意は残念ながら、巣鴨の集団に対しては浸透できなかったものと思われる。そして高齢者の割合は増加の一途とあれば先行きも想像に難くない。こうして30年後はどうせ自分たちはいないのだという意識のもとに物事が動いていくことになるのではなかろうか。






かくして、国家全体が老化していく。

これはまさに明確かつ直接的な脅威であり、人権に制限を加えうる条件を満たす・・・とまでは言いすぎか。(反省)